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日本海軍発祥の地にて

2013. 8.17

‘美々津に行こう’道の駅‘青雲橋’での昼食時、地図を見ていた相棒さんが珍しく宣言。本日のお宿方向に向かうものとばかり思っていたのでちょっとびっくり218号線をさらに南東方向、海を目指して車を走らせます。美々津は宮崎県の中北部にある日向市の南にある港町。

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到着してまず目に入ってきたのは、傍に日章旗が掲げられたこの石碑。


Dsc_0652 神武天皇が率いた水軍が初めて編成され、進発したのが美々津の港。そこで、国はこの地を‘日本海軍発祥の地’と定め、紀元2,600年記念事業の一環として石碑を建立したそうです。碑文の文字‘日本海軍発祥之地’は、時の内閣総理大臣海軍大将米内光政(よないみつまさ)氏によるもの。大東亜戦争の終戦直後、進駐米軍によって破壊されたものの、地元有志の強い要望もあり、昭和44年に復元されました。


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石碑の近くの‘立磐(たていわ)神社’。神武天皇ご出航の際、航海の安全を祈念して、この埠頭に底筒男命(そこつつのおのみこと)、中筒男命(なかつつのおのみこと)、表筒男命(うわつつのおのみこと)の三柱の大神を奉斎したとして、第12代景行天皇の時代に創祀されもの。1,578年に大友氏・島津氏の間に起こった戦の中で、宝物文献記録等のすべてが烏有に帰したそうで、再興されたのが1,623年のこと。


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境内には‘神武天皇御腰掛岩’があり、岩そのものが御神体として崇拝されているようです。


美々津の町の背後にある遺跡からは、畿内、瀬戸内様式の弥生土器が出土しており、相当古くから該地との交易があったことが裏付けられていますが、美々津が港町として成立するのは江戸時代初期の頃。3万石の高鍋藩において耳川の河口にあった美々津は城付地に属し、藩の重要な港となっていました。
その美々津を経済の面から支えていたのは、千石船を所有する廻船問屋たちで、備後屋、明石屋、播磨屋、泉屋等の瀬戸内や畿内の地名を屋号とし、耳川上流で生産された材木や木炭等を大阪方面に向けて出荷、帰路では、関西地方の特産品や美術工芸品を持ち帰り、地域文化の担い手としての一面もあったそうです。彼らの活躍がやがて‘美々津千軒’と言われるほどの繁栄をもたらすこととなり、明治から大正にかけて美々津の港は最盛期を迎えることになりました。

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江戸~明治時代の白壁土蔵の町並みが残る美々津は整然としていました。京都や大阪の町家造りをとり入れたものとして注目を集めたそうです。


Img_1528 例えば、こういった虫籠窓や


Img_1529 京格子など


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まちなみ防災センターもなかなか雰囲気のある建物で


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また、町のところどころで共同井戸を見かけました。現役なのかな.....?


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町中にあった‘日向市歴史民俗資料館’へおじゃましてみました。美々津でも屈指の廻船問屋であった‘河内屋’を修復したものだそうです。


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土間を上がってすぐ左がお店の部分だったようで、土間近くに張机


Img_1518 そして、その上には複数のそろばんが置かれていました。
そろばん.....懐かしいですね~。


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2階の座敷から見おろす中庭。この部屋は、海からの風がびゅ~びゅ~吹きぬけて、とても気持ちよかったのを記憶しています。昔の建物って、自然を利用するのがほんと上手ですよね.....。


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資料館で撮ったものか、一般のお宅のものを撮らせていただいたものかちょっと記憶が曖昧になってしまいましたが、美々津の家の郵便受けです。船のデザインは多少異なっていましたが、だいたいこのようなイメージで統一されていたように思います。ちょっと素敵だと思いませんか.....?

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